□  戦う‘顔つき’                               平成14年6月18日



 俄かサッカーファンになった。毎日テレビ、ラジオ、新聞、マスコミがワールドカップ報道だから仕方がない。サッカー選手が集団で写った新聞記事のトップが素晴らしい。集団となった時の、戦う‘顔つき’に自分は感動しているのである。

 毎年新入生が入ってくると、必ずどこかで見た顔だと意識するようになった。顔つきで判断するのは危険な事だが、それからの新入生が育っていく過程で、自分の頭の中で描いた姿とそう変わらない過程を踏んで卒業して社会人になっていった。集団で行動すると、自分の出身の大学の建築の学生と他大学の建築の学生との顔つきの差は明確になっているのにいつの間にか気付いたのである。今では顔つきが集団で見たときに職業によって判断できる時が良くある。建設会社の社員の集まりであることがすぐに峻別可能な気がする。

 髪の毛が黄色だとか、赤いとか、にわとりのようだとか、サッカー選手をマスコミでコメントしている人がいる。一説には、海外からのオファーを期待するから注目され、目立ちたいために髪型を変えているとも言われている。厳しい目つきで全身戦う姿勢なんだから、どんな髪型でも十分だ。そんなことより、殆ど‘眉毛’をメークしていないことにあまり気付いていない。渋谷を歩いている似たような髪形の若い人は‘眉毛’までメークしている。サッカー選手にとっては十分戦う自信のある‘顔つき’だから‘眉毛’はそのままでいい。

 ショペンハウエルは顔つきでその者が知性的であるかどうかわかるという。愚人は表情に見にくい我欲がそのままあらわれる。それに対して知性人は認識衝動が強いため、我欲から解放された一種神的な表情を持つという(「哲学思想がわかる」日本文芸社、270頁)。今日は仙台での決勝トーナメント、日本対トルコ。厳しい戦う‘顔つき’の翌日の新聞トップ記事を期待している。

   
  [争う]平凡社 カルチャーtoday-6 より

ご意見、ご感想は ndk-aoyagi@ndk-g.co.jp まで


「森の声」 CONTENTSに戻る