□  老いる準備                                   平成14年7月19日



 ‘老いる準備’はしなくてはならない。毎日が準備のための積降しなのかもしれない。‘終わらないこと’程辛いことはない。ずっと毎日徹夜が続く辛い仕事だと思えば本当に辛いし、群ようこ(新潮45、6、274頁)のまがった親不知の顔半分はれる程の激痛も、歯医者に行けば痛みがなくなり、終わりになると思えば耐えることが出来る。‘終わること’程楽しいことはない。予定通りきちんと終わった仕事の気持ち良さは、次に向かっての糧となる。単純作業でも芝刈りは、やった分だけきれいに終わり気持が良いし、よく手伝いにいった引越しの爽快感も何とも云えぬ充実感だった。毎日‘終わること’の積重ねを積降しつづけるのが一生のような気がする。‘老いる準備’は精神・肉体ともにマイナスに下降していく中で、いかに自然に逆らうことなく終わりの区切りが出来るかにかかっている。

 ビートたけしが雑誌でコメントしている。誰も俳優「高倉健」が70歳近辺だとは思えない。そういえば20年近く前に見た「夜叉」の映画と、数年前の「鉄道員」。殆んど変わらない。俳優としての姿、かたちの並大抵でない不変さの努力には驚かされる。演じる側の「時」がじっと止まっている。いつも中年だ。同じ世代の俳優「いかりや長介」の渋い演技が最近光っている。TVの老刑事役など実に適役だ。老けた渋みがにじみでている。「時」が止まりつづける俳優「高倉健」と「時」とともに流れていく自然体の俳優「いかりや長介」。

社長を2世の後継者に譲った途端、それまで住んでいた主屋を後継者に明け渡し、自分はそれまで後継者が住んでいた付属屋にさっさと移ってしまった立派なオーナー経営者がいる。年をとれば肉体の衰えとともに精神も衰えていく。衰えていく中できちんと判断、決断できるかは、自分にとっても容易でないことは想像できるし、決断を誤った例は、身近でも数え上げればきりがない。節目、節目で終わりに出来るか、終わらせることの繰り返し、積降しが生きていくことだと常々思っている。

 自然に逆らうことなく、俳優「いかりや長介」の‘老いる準備’はしていかなければならない。それでも「高倉健」の姿を気にしながら、自分は週に3回激しく「筋トレ」を続けている。‘老いる準備’は積重ねたものの積降しであり、喪失の連続を受け入れることである。



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