□ 流行歌                                                      平成15年7月2日


 流行は時と共に流されていく。時代の泡となって消えていく。ほんの短い間の流行りだから時代を変えていく力にはならない。一時の流行に乗った建築デザインは忌み嫌われ、生活をする器としての建築の本質からかけ離れたデザインとなる。それでも生活とはかけ離れた流行を追い求めるだけの歌の世界でも山下達郎の「クリスマスイブ」は毎年12月になれば必ず街中流れ出すし、サザンオールスターズの曲も夏の暑さには毎年欠かせない。26年前の「勝手にシンドバット」は今もまだ売れ続けヒットチャート一位をうかがっている。最近はほんの短い間だけ流行る「流行歌」はいつの間にか消えてしまった、時と共に流されていく時代の泡としての「流行歌」が何と問いかけられてもなかなか思い浮かばなくなってしまった。

 「流行歌」は時代の泡となって歌われ続けてきた。「赤いりんごに唇よせてー」と歌われた「りんごの歌」は戦後の復員服と闇市とうまく合っていたし、笠置シズ子の歌は戦後そのものだった。水原弘の「黒い花びら」は昭和30年代の日本の復興期の始まり、「こんにちわ赤ちゃん」は東京オリンピックあたりの高度成長の始まりのイメージと輻輳する。西田佐知子の「アカシヤの雨が止むとき」は安保闘争のデモ隊の背景、その後吹き荒れた学園紛争が終わってみれば吉田拓郎「結婚しようよ」、南こうせつかぐや姫の「神田川」が流れていた。それまでの曲の雰囲気にはなかった井上陽水と荒井由美の曲が流行りだしたらもう時代から汗臭い臭いはベルボトムと共に消え、キャロル、ジョニー大倉、矢沢永吉、小説「なんとなくクリスタル」の軽い透明感が都市の中を漂いだした。「流行歌」は時代の泡となって過去を、記憶を、曲のイメージと一緒になってなぞることが出来る。

 演歌を除いて時代が昭和から平成へと変わってからの歌は時代の泡としての「流行歌」ではなくなった。最近は少し人気が落ちてきた感じがする浜崎あゆみの曲が流行っても時代の泡とは連動しない。歌、メロディーそのものにだけ聞き手は反応する。平成元年に流行った曲はWINKの「さびしい熱帯魚」。MR.Children 、米米CLUB、trf、安室奈美恵、GLAY、宇多田ヒカルなどの歌の売れ行きはそれまでの「流行歌」以上のものがあっても世相が曲と一緒に浮かんでこない。めまぐるしく時代が小さく変化すると言ってしまえばそれまでかも知れないが、売れて人気が出てもなかなか時代背景と曲は一致してこない。聞いていて、聞き流していて楽しい音楽、それまでの「流行歌」とは違う。せいぜい大滝詠一の「幸せな結末」ぐらいまでの曲が最後、時代背景がくっきり思い起こされる曲はなくなってしまった。

 映画の1シーンを演出するのに世相を表現する「流行歌」は最適だった。昭和の年代の1シーンに流行った「流行歌」をBGMで流せば昭和の雰囲気としての効果は抜群だった。それが小室哲哉系の音楽が流行りだしてからすっかりこんな感覚も薄れてしまった。テレビ番組の「歌の大辞典」、10年前の流行った曲と今の曲との対比番組も10年後には組み立てが出来そうもない。流行としての音楽は時と共に流されていく、そして時代の泡となって記憶と一緒に消えていくから懐かしい。ニューミュージック全集も世相を思い出すから売れていく。いつの間にか時と共に廃れていく「流行歌」と言う名前自体も使われなくなってしまった。それでも北原ミレイの「石狩挽歌」、中島みゆきの「別れ歌」などはいつ聞いてもほんとに感動する。人間の本質を問いかける「悲劇」、「不条理」をテーマに据えたからきっと流行に流されない、胸を打つのである。今夜は久しぶりに梅雨の雨音を聞きながら長谷川きよしの「別れのサンバ」でも聴いてみようか、いやロックキャンディーズ直後のアリスの「紫陽花」にしよう。

                                          (青柳 剛)

ご意見、ご感想は ndk-aoyagi@ndk-g.co.jp まで


「森の声」 CONTENTSに戻る