飲み続ける自分                                               平成18年1月10日


 酒はだらだらとだらしなく飲む事は止めたほうがいい。酒と煙草は身体に悪い。出来れば酒も飲まない、煙草も吸わないほうが良いのに決まっている。それでも酒も煙草も嗜好品とはよく言ったもの、上手にたしなめばそれなりの効果はある。ところが嗜好品の枠を超え出すからおかしくなって来る。問題なのはどちらも習慣性から抜けられない。酒を飲んだ気分は尾を引く、煙草も吸い出せばなかなか禁煙と言うわけには行かなくなってくる。特に酒を飲んだ上気した気分は一時のもの、醒めればあの時のハイな気分はなんだったんだろうと気づいた経験はおそらく誰にでもある。思考が止まっていた単なるハイな気分に違いない。だらだらと酒を飲み続ければ思考が止まった中途半端な思考しか出来ない人間が出来上がっていく。

 酒は、一言で言えば人が集まった時の酩酊と昂揚を目的とした会合文化に支えられている。酩酊と昂揚は繰り返される日常の澱から解放されるから楽しい。ところが一時の楽しさが習慣になってくるからおかしくなってくる。酒を飲む習慣性から抜けられなく失敗した例は数え上げればきりがない。去年の春先に関西で起きた悲惨な列車事故のさなかに宴会、その後二次会三次会まで行って厳しく糾弾されていたのもただなんとなく今まで繰り返していたことの延長線にあると思っていた習慣性が根付いていたから止める気持ちが働かない。人との出会いも酒席を交わすようになれば一気に近くなる。お互い仲間同士のような気分にすぐになれる。それでも仲間のようになった気分でお互いの境界線が消え、不祥事となってマスコミを賑わしてきた例を挙げれば本当にきりがない。

 酒を飲み続けると言う一面から見てみると面白い事が見えてくる。去年一年間を振り返ればいろんな事件があったが株の大量保有の問題は、去年の年明けから始まって一年間マスコミを賑わさない事はなかった。いつも新聞に載っていない事がなかった一年と言っても言い過ぎではなかった。TBSから始まってフジテレビ、プロ野球の阪神まで。特に春先のホリエモンのTBS問題は、目新しかったこともあってみんなテレビにそれこそ毎日釘付けになった。いろんな可能性を金融株式評論家が言っていても答えはあっけない幕切れ、強気の何もかも押しつぶしてしまいそうなホワイトナイトが出てきた途端に一件落着、そう、中身はどうあれ冷静なマスコミ傍観者の国民とって中途半端な解決で終わってしまった感は拭えない。あれもきっと、酒の所為、ホリエモンの日々更新するブログに答えは書いてある。毎日酒を飲み続けているホリエモンの思考が中途半端のまま、中途半端にあっけなく終わったのである。

 酒はだらだらとだらしなく飲む事は止めたほうがいい。確かに酒を飲んでいる時のハイな気分は思考が続いているようで見事に止まっている時、何にも生み出さない。酩酊と昂揚の気分が捨てがたいだけ、だらだらと飲み続けているだけの止まった思考から逃れられない。止まった思考の毎日の積み重ねはとんでもない空白の積み重ねを生んでいく。そしていつも最後まで行きつかない中途半端な思考しか出来ない人間ができあがっていく。そうは言っても今年も暮れから正月、バブルの時のような訳にはもちろん行かないが酒を飲む機会は多い。真面目にひとつひとつ几帳面に出席していれば週に三四日、身体が持たなくなってくる。暮れから正月、1年の仕舞際と始まり、節目の時だからまあいいかと思いつつ、きっかけは宴会、だらだらとだらしなく飲み続けそうな自分がいつも傍にいる。飲み続けそうな自分とどこで縁を切れるかどうかで本当の新年が始まっていく。


                                          (青柳 剛)

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