AURORAの万年筆                                              平成19年2月16日


 最初に自分で買った始めてのネクタイが日本橋の丸善だった。大学に入って、母が何かの時に背広ぐらいはなければと言いながら一着の背広をつくってくれた。ネクタイも一緒にと言って買って貰った記憶があるが、紺縞の背広に似合わない。洋書を見ながら気に入ってこれなら似合うと思って買ったのが丸善のエン地色のネクタイだったのを今でも覚えている。あの当時で5千円ぐらいしたから高価な買い物だった。しばらくの間、気に入って何かの折にはあの一本のネクタイを大事に締めていた。今日の話はその丸善、東京駅のすぐ前のオアゾに入っている丸善で万年筆を買ったという話である。何度か万年筆売り場で見ていたのだが、字を書くには筆記具が大事、どうしても欲しくなってAURORAの万年筆を買ったのである。ペン先の滑らかさは勿論だが、万年筆の重さが気になるところ、後は軸の装飾や細工はどうでもいい、そんなことを考えて銀色のメタリックな万年筆に決めた。

 筆記具が半ば使い捨てに近いボールペン、シャープペンシルが出回るようになってからおかしくなってきた。使い捨て感覚と一緒になって書くこだわりまで消えていってしまう。百円ライターの台頭と共に手すりマッチが消え、そのうえ重々しく着火するライターの火まで消えていったあの感覚と同じ感覚だ。煙草一本を吸うのにも作法とこだわりがあったことを忘れている。メモを取る感覚しか残らない。指先から使い捨て感覚の希薄さしか伝わってこないから、身体で書く感覚は培われようもない。自分で書く文章のこだわりは、ペン先の強弱、ペン先の跳ね方、流れ方によって思い入れと共に伝わってくる。もらった手紙の文字が毛筆とまでならなくてもペン字なら手紙の相手の気持ちはしっかり伝わってくる。使い捨てボールペンで書かれた手紙とは違う、書いた相手の思いも違って見えてくる。

 ここ数ヶ月間、文章を書くのにパソコンを打っていた。打っていたのである。最近はパソコンを打つスピードもかなり速くなってきたのも悪い。いつの間にか、考え、しゃべる速度でパソコンが打てる。みんなパソコンに任せっぱなしだった。漢字が書けなくなるといわれているが、その通り、漢字の書き順から始まって字そのものが曖昧になりだした。簡単に漢字に変換出来るからそうなるわけだが、その上、身体で考える力まで失われてしまう。後は切り貼り、コピー、繰り返し、挿入、確かにパソコンは便利だ。便利さゆえの落とし穴、文章はあっという間に文章らしく仕上がってくる。あっという間にきれいに仕上がった文章に誤魔化される。文章は四苦八苦しながら身体で書いていく。手書きで書きながら、パソコンは仕上げるための道具なのである。

 丸善で買ったAURORAの銀色の万年筆、書き味は滑らかだし重さも丁度いい。そう言えば、昔はちょっとした町にはどこにでも万年筆屋があった。今では文房具屋の片隅に追いやられているが、万年筆だけを扱う専門店があった。それだけ需要があったということだが入学祝、卒業記念はたいてい万年筆だった。高校に入学したときも父が交叉点の街角にあった小さな万年筆屋に連れて行ってくれて万年筆を買ってくれたことを思い出す。急に大人になったような気がしたものだった。少し大きな都市まで行けば、ペン先だけでなく何でも直してくれる万年筆病院もあった。万年筆をいつまでも大切に使ったということだ。いつの間にか使い捨てボールペンとシャープペンシルそしてパソコンに万年筆は取って代わられてしまった。AURORAの銀色の万年筆、もうインクがなくなりそうだ。インクのにおいを嗅ぎながらインク壜からインクを丁寧に吸い上げる、文章を書く楽しみはこんなところにもある。

                                          (青柳 剛)

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