□ 母は93歳                                                                        平成20年5月12日


 去年1年間は何もなく無事に過ごすごとが出来た。今月の末に満93歳になる母のことである。前の年は足の甲の骨折があったりして歳相応のトラブルがあったが、それこそ熱を出すなんてことも1度もなく、まるまる1年間が穏やかに終わった。正月からも平穏無事な日々が続いていた。1月6日の日曜日に甥の子供、小学一年生の男の子にスポーツ店に連れて行って5000円の青い模様が入った本格的な少年用のサッカーボールを買ってやった。そのサッカーボールを使ってのサッカー遊びをしたのが1月の14日、大人2人と子供2人のサッカーの真似事は2時間にも亘って本当に楽しかった。体中のあちこちが痛い。その前12日が、国立競技場の早稲田大のラグビー大学決勝戦の観戦と楽しい日が続いていた。どうも楽しかった日々の後には何かが起きる、人生とはそんなものとの感覚がいつも拭えない。

 15日に東京に出かけていたらショートステイに出かけていた母が37度台の熱があるとの連絡が入った。暖房の効いた施設の中では体温調節がうまくいかないからその程度の発熱は大丈夫だと軽く思っていた。夜に出かけて見ると淡い期待は見事に外れて、母はもうぐったりしていた。それでも「水分補給で一晩」と思って寝かせつけて帰ってきたら、翌朝はもう歩けない。慌てて車椅子に乗せ、家に連れてきて連絡したのはかかりつけの医者、抗生物質と水分補給の点滴を始めた。高熱で震えとうわ言まで出てきた。それでもその日の夜は点滴のおかげか、急に熱も下がり、息は少し荒いが寝息を立てだした。翌日は37度台の発熱ぐらいで治まっていたが、またその翌日からは前よりもひどい状態になってきた。指先で計る酸素の取り込み量まで下がっている。医者に脇に呼ばれて「高齢だから何があっても・・・」と小さな声で言われて愕然とする。一晩中熱も下がらず、うわ言の母を看ながら一睡もしないで夜が明けた。いつの間にか母の病気が発症してから5日も経った土曜日の朝になっていた。

 認知症があるからと躊躇っていた母の入院だが、もうそんなことは言っていられない。命に関わりそうだ。朝の7時に医者と相談して入院する覚悟を決めた。自分の体力が持つかどうかの不安はよぎるが、もう待てない。父の時から2度目の救急車同乗である。入院の診断結果は予想通り、肺炎のレントゲン写真と心不全の写真を見せられた。「まずかったかあ」と後悔しても始まらない、全力を尽くすだけだ。夜中に点滴が終わるまで付き添った。幻覚によるせん妄状態も出てきた。無意識に点滴を外そうとするから離れられない。それでもそれから2−3日もすると呼吸は落ち着きだした。底まで落ちた状態からうまく這い上がってくるかと期待したが、今度は食事を摂ることが出来ない。入院したての頃には少しは食べられた。食事を摂ることが出来ない姿を見ていると父の最後の入院のつらい光景までもが思い出される。「なんとかしなきゃあ」と気が焦っても頼りは病院の医者と看護師、なす術がない。思いついたのは父の墓参り、そんなことしか思いつかなかった。ちらつく雪の中、泣きそうな思いで父の墓にすがりに行ったのである。

 大袈裟に言えば、宗教にすがる気持ちはきっとこんなきっかけから生まれてくる。発症から10日近く経ったこともあるのだが、不思議なことに墓参りをしたその日の夕飯から少しずつ食事を摂りだした。その後、日増しに摂取量が増えてくる。これは何とかなりそうだと確信を持ち出したのは墓参り以後3日経ってからだった。こうなってくると問題なのは10日以上も寝たきり、殆ど歩いていないから、病気が直ったのは良いが寝たきりになることの不安だった。固まりそうな足首から少しずつ動かしだす、布団の中での足全体から刺激を始める。少しずつベッドの上に起き上がらせ、その次が車椅子、そして、車椅子からようやく一歩、歩き出したときは感激だった。窓台につかまり、手すりを使って少しずつ歩き出した。おぼつかない足取りだが、こうなるとベッドの上で何をするか分からない。目が離せない、早めの退院しかない。

 結局、入院してから2週間近く経って退院した。炎症の値を示すCRP値が入院時は20、4日後が4、退院時が1以下だった。考えてみると30にもなっていれば肺は真っ白、手の施しようがなかった。危なかった。年寄りは早めの治療が肝心だ。退院してからしばらくは付き添って寝ていたが、おぼつかない足取りもようやく直ってきた。それでも、今回の入院のダメージで認知症の度合いは少し進んだような気がする。そのうち誰が誰だか分からなくなりそうだ。年初めの楽しかったサッカーゲームの後の雪降る中の母の入院騒ぎ、楽しかった後には何かがが起きるということをしみじみと感じさせられる出来事だった。考えてみれば、もちろんその逆もあると自分に言い聞かせれば介護に向かう意欲も沸いてくる。「親の面倒はどんなに見ても見過ぎということがない」とは人生の基本、そんなことを考えながら介護に明け暮れ、今月末には母は満93歳になる。これから陽気も暑くなりそうだ、短めに髪の毛をカットしてやる技術、いつの間にか、なりたての美容師には負けないぐらいに上達してきたのである。
                                          (青柳 剛)

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