□ 出世する人 しない人                                                                   平成21年3月16日


 自分に似合わず、何を勘違いしたのか、大組織に入ってコツコツとした人生を歩もうとした時がある。当時でも売上高1兆円になろうとする企業のことだが、それまでの考え方と大きく違った一瞬だった。今になって考えてみれば、守りに入ろうとした気持ちが頭の隅をよぎったのかも知れない。早稲田大学の建築学科、とりわけ廻りにいたデザイン大好き人間は、ほとんどが国内外のアトリエ事務所志向だった。手にする給料の事なんか誰も考えていなかった。自分の好きなデザインに没頭する生活を夢見ていた。実際、新聞配達をしながら、無給に近い状態で働き出した仲間もいた。大企業にも、官庁にも眼を向ける仲間は本当に少なかった。要は縦型の組織に入ることを嫌っていたのである。そのうえ、学部卒業の時は景気がいいこともあって就職活動にそれほど苦労はなかったが、2年後の大学院を卒業する頃には、まったく逆、不況の波の中でどこも採用が控えめになってしまっていたのである。

 結局は、大阪の設計事務所のウエイティングスタッフとして景気の回復を待つことにして大学院を終えた。みっちりと建築を修行するには最高の事務所だった。一生の間に少しぐらいの待ち時間があっても惜しくはないと思ってそう決めた。この間、何もしないわけにもいかないから代官山ヒルサイドの小さな事務所に籍を置くことにして毎日を送っていた。秋も深まった頃、研究室の教授に呼ばれて大学に出かけてみると主任教授と2人に向き合うことになった。先日企業の担当者が大学にやってきて「ウチの会社に来ませんか?その気になれば明日からでも出社していい!正式な入社試験は後でいいから・・・」といいながら帰っていったという。売上高1兆円になろうとする企業の大学の先輩の役員のことである。いつになるか分からない身分不安定のままのウエイティングスタッフから急激な安定路線への転換だから悩みはそれなりに大きかったが、結局はその後の先生の強い薦めもあって、返事をした翌日から会社勤めが始まり、毎日朝の満員電車に揺られ、図面との格闘が始まったのである。

 もちろん、大学を卒業して大組織に入っていった仲間も数多い。人事異動の季節、最近は「日本経済新聞」を見ていると仲間の出世記事が数多く目に付くようになってきた。早い人は50歳代そこそこで役員に上り詰めている。先日も日本を代表するトップ企業の役員に後輩が就任していた。お祝い電報は、仰々しいような気がするので直接電話のやりとりでしばらくぶりにお祝いの言葉を交わした。ところで、大企業に入って出世するかしないかは、いろいろな要素がある。もちろん、学閥・能力の問題もあるが、おそらくうまく流れに乗ったかどうかも影響する。組織の中でソツなく業務をこなすことも必要だ。そんな中で、最近の傾向で気づいたのだが、「あれえ?」と思う人のほうが出世しているのである。この「あれえ?」は、学生時代のイメージを引きずっているから湧いてくる。もう少し言えば、学生時代にはそれほど目立たなかった人、学生時代にはどう見てもこっちの人の方が優秀だったと思っていた人を追い越して出世している。首席で卒業して影が薄くなってしまった人も数多い。

 要は、コツコツタイプが出世しているのである。学生時代の優劣はあまり関係ない結果になっている。それでも学生時代のひとりひとりの考え方を思い起こしてみると、目立たなくても自立型の生活を送っていた仲間が総じて出世街道の先を行っている。こういった仲間は、自立型だから家族ともしっかり自立していた。子もそうだが、親が子離れしていた生活を送っていた人達の出世が早い。廻りで早々と役員クラスになった人はみんなそうだった。売上高1兆円の企業に勤めだして、正式な入社試験も受けたが、結局は半年もしないで辞めてしまった。やはり、ひと時の勘違いだった。2人の先生と大企業の先輩には申し訳ないことをしたと今でも思っている。大学に職を求めることから始まってその後の人生を歩んできたが、振り返ってみればコツコツタイプの人間ではなかったし、あのまま大企業にいても出世街道とは縁遠い人生だったような気がする。大企業に入ることを喜び、「関西弁になってしまう!」と訳の分からないことを言いながら、大阪に行くことさえ反対し続けた母こそ子離れできない親そのものだったと、最近つくづく思う、そして、コツコツどころかがむしゃらタイプ、大組織の中では出世しない条件がいくつも揃っているのである。(青柳 剛)

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