□ 「ウワマチ シタマチ」                                                                平成21年5月11日


 「中心と周縁」の概念は建築、都市を語る上で避けて通れない考え方である。フランスの哲学者ロラン・バルトがその著書「表徴の帝国」(新潮社刊)で「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、<いかにもこの都市は中心をもっている。だがその中心は空虚である。>を示している。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市全体がめぐっている。」と述べている。中心性がありそうな都市、東京に対して、実体性のない、クライマックス性のない中心性が奇異に映ったことを表現した有名な一文である。「中心と周縁」、分かりやすく「真ん中とハジ」「ウエとシタ」などに置き換えることが出来る。そして、「中心と周縁」を基本に据えて考えてみれば、人の意識にも大きく影響をもたらすことが見えてくる。

 私の住んでいる都市の構造は面白い。車社会になったから都市の構造の明確さは消えていかざるを得ないが、建築家池原義郎先生が「君の住んでいるところは面白い街だね、イタリアの都市ペルージアに似ている」と学生時代に言われてその特異性に改めて気づいたのである。住んでいる人は意外とその特殊性に気づかない。小さいときから「ウワマチ(上町) シタマチ(下町)」で語られ、聞かされてきた。「ウワマチ シタマチ」が都市の仕組みそのものを表現していたのである。外に向かっての玄関としての鉄道の駅と中心市街地が分離されているのである。しかも中心市街地は、駅よりも300mぐらい高低差のある河岸段丘の上にある。都市がふたつに分断されていることの面白さを、ペルージアになぞって池原先生は指摘したのである。そして、そこに住んでいる人の日常会話として、「ウワマチ シタマチ」の概念が定着してきたのである。

 最近気づいたことだが、「ウワマチ シタマチ」の意識の差が住民の間にしっかりと流れているということである。これは10数年この地を離れ、帰ってきてからその思いは一層強くなった。ひと括り論は危険だが、「シタマチ」の人は常に「ウワマチ」の人を意識して生活しているような気がする。どちらかといえば、地理的な高低差そのまま、常に上昇志向があり、粘り強い人が多い。それに較べて「ウワマチ」の人はおっとり型が多い、あまり細かいことに頓着しない人が多いのである。たとえば、選挙になると如実に表れてくる。歴代の市長を始めとして県議会議員から国会議員まで、殆んど「シタマチ」出身なのである。「シタマチ」の人口が少ないのに結果はいつもこうなっている。「ウワマチ」の真ん中の人はそれこそあり得ない。もっと言えば、候補者本人の上昇志向はもちろんだが廻りでサポートする人達にもがんばり精神が根付いているような気がするが、都市の構造そのものが転化された結果になっている。

 もう少し拡げて、日本が世界の中心だと思って子供の頃から眺めてきた世界地図も、西欧から見れば極東、極東と思っている人と中心だと思って育ってきた人とのずれの中から世界は存在する。そして、企業の組織の中の大企業病も、まさにこのことを指している。中心意識がはびこりだした組織には、チャレンジ精神は育ちようもない。到達した守りの気持ちから失われていくものは多い。考えてみれば、中心意識が芽生えれば上昇志向が減退していくのは当たり前の話だし、いつも中心を目指していると思い続けるからこそ成果が出てくる。新しい風は、北風・南風・西風・東風といつも「周縁」から吹いてくる、「中心」から吹き出す風なんかありえない。「ウワマチとシタマチ」、最近はいろいろな交通網が出来て都市の構造も変わりだした、「シタマチ」精神を育んだ高低差のある坂道を歩く人の姿もめっきり見かけなくなったのである。(青柳 剛)

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