□  「考えること」                             平成14年5月5日



「考えること」は大事である。しかもずっと持続的に「考えつづける」ことが。感性を養い、「蓄積されるもの」として残っていく。

数年前まで自宅から車で1時間強の大学で建築計画の授業を週2回程担当していた。1コマ90分で2コマだから1日で約3時間。建築の設計の講義をし終わった後も学生たちと建築についてあれやこれやと語り合って来た。20年近く大学と関わって来たから、かなりの数の学生と知り合いになり、設計・施工などみんなそれぞれの分野で社会人となっていった。

車の渋滞を避けることもあって、いつも帰宅するのは夜の11時すぎ。殆ど1日おきのこんな生活パターンが繰り返されていた。会社の日常の業務に追われる中にあって、大学に出かけるために車で乗り出すと、30分程して頭の中が切り替わる。授業が終わって気持ちが高揚している。渋滞のない黒い夜の国道は最高だ。いろんな「考え」が浮かんでは消える。コンペのデザインの事、読まなければならない本の事、読みきった本の事、時局のこと、つぎにやらなければならないこと・・・文章に書き留めなくては。この黒い1人の1時間は貴重だった。

きびしい時こそ「考える」。ただ、毎日のことに追われると問題処理に終始して、「考えること」が止まってしまう。どうしたら良いか困った時、むずかしい時など、「考えない」人はいない。人と会ったり、映画を観たり、旅行したり、講演会を聞いたり、本を読んだりすることは大事で「考える」状態にいつも自分を置いておくことができる。大学で授業を終えて帰宅する1人の車の中の空間は生活リズムの中でメリハリの付いた「考える」時間に大いに役立っていた。今でも「考える」時は夜、車で1人で走ってくる。

ずっと「考える」ために本を読み、人と会い、いろんな体験をし、そして今文章を書いている。「蓄積されるもの」は決して追われる日常の積み重ねでなく、追いかける日常の積み重ねなのである。



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