□  布文化                                   平成14年10月2日



 「可憐な野菊を染めた四角の布片がグッチの鞄より機能的で美しいと西洋人が目をみはった」(「無窓」146頁白井 晟一著 筑摩書房)
 ‘布文化’をつきつめて考えていくと、日本文化のありようが見えてくる。良く言われる事だが風呂敷は、中身があって初めてかたちが作られ、中身がなくなるとかたちも消えていってしまう。建築の地鎮祭などの儀式でも大地を幕で囲うと、そこは神様が降りてきて、工事に携わる人たちと、酒を酌み交わし、魚を食べて、季節の果物を味わう虚構としての神聖な空間と化す。幕を取り外せば大地だけの何もない平面的な現実の空間となる。もう少し進んで考えると木造建築の透明性をもった仮設性のある架構は‘布文化’の延長なのかもしれない。

 木綿の‘手拭い’。静かなブーム。東京の代官山の‘手拭い’の店、「かまわぬ」。若い人から年配の人まで幅広く人気がある。布の端は切りっぱなし、湿気の多い日本の風土からの知恵、吸水性が良く、乾きやすい。縫い目をつけると雑菌がつきやすく衛生的でなく、自由な大きさに切れるのが良い。手を拭くだけでなく‘手拭い’は、いろんな用途に使える。豆絞りの‘手拭い’をキリリと頭に巻けば一気にお祭り気分にもなれるし、ねじり鉢巻は気持ちを引き締め仕事に熱中できる。タオルで鉢巻では絵にならないし、想像しただけでちぐはぐな姿になる。バンダナ、エプロン、暖簾、怪我をした時の包帯代わりにも木綿の‘手拭い’はなる。昔、腰に‘手拭い’をぶらさげていたのがバンカラ学生、きれいな図柄の‘手拭い’をバックに綺麗に折たたんでしまっておいたりするのが、今風のお洒落なのである。

 ‘手拭い’は角を決めながら清潔感があってきちんとおりたたむことが出来ることが日本人の粋なお洒落感覚となんにでも使えるという合理的精神に合っているのかも知れない。‘タオル’。いつの間にか洗面や手を拭くときの主流になったが、もともと西洋から移入したもの。ふわふわした分かさばるが、身体を洗ったり、湯上りの身体を拭いたり、ホテルに備え付けのバスローブ、どんな事をしても‘手拭い’には変えられない心地良さがある。‘タオル’の目的とする機能は気持ちよく‘拭く’という単一機能にはもってこい。しかしながら他の用途にはあまり使えない。ましてやかさばる分だけ持ち歩きには不便なのである。

 いろんな用途に使えて、綺麗に小さく折たためて、その上そっと忍ばせて持ち歩ける木綿の‘手拭い’。西洋文化には‘かばん’がある。ものを入れるにもきちんと左右対称で軸線が通っているし、入れるものと、入れる場所まで決められている。入れものとしてのかたちも最初から決められている。あるようでない、それでいていろんな用途に使え、自由なかたちの日本の風土にあった日本の文化としての「布文化」。落語の小道具には‘手拭い’と‘扇子’は欠かせない。日本の伝統文化、世界に誇れる職人文化であることを誇りに思えてくる。
                                                         (青柳 剛)



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