□  透光不透視                                             平成14年11月15日



 闇があるから光がある、影があるから陽がある、虚像があるから実像がある」。影さえもなくした明るい世界が「近代合理主義」。近代建築が目指してきたのが、コンクリート、鉄、そしてガラスの世界、透明で闇を無くす事を目的としてきた。建物全体を均質な明かりの中に包みこんでいく。何もかもがくっきりとした光の中で照らし出されてしまうことになる。白熱球から蛍光灯が登場したこともこういった動きに拍車をかけていく。全面光で眩しいほどの光ののスーパーマーケット、大型店などの商業建築に近代文明を享受できる事の有難さの幻影を感じとったのかもしれない。押しなべてすべての建築が同質の雰囲気、感覚でつくり上げられていく事の危うさ。光は自然光も人工光もに対する明確な目的を持たずに取り込まれ、いつの間にか楽天的な明るさに慣れることによって深く研ぎ澄まされた感覚までもが失われていく。

 マッスとしての塊に穴をあけたのが開口部、人が出入りするのが出入り口、光と空気、視線を取り込むのが窓。建築は光の変容体。建築に注ぎ込む自然光の質と量によって場は変化に富んだ空間となる。住居の広場としての居間は、パブリックな広場は、燦燦と降り注ぐ拡散光が溢れ、思索にふける個の空間としての個室は、日々刻々と変わる自分だけの光が差し込む。それは鋭い直射光かも知れないし、いったん反射した二次光かも知れない。建築はいろんな場面の積み重ね、場面をかたちづくっていくのは演じる住まい手、背景としての建築に生命を吹き込むのが注ぎ込む光と影。悲喜こもごもの場面と一体となった光は記憶を確実なものにする。澄み切った朝陽もいいが、横から差し込む黄色い夕陽もいい。床、壁、天井、建築を構成する素材を照らし出す光は素材の表情をも豊かにし、素材の織り成す微妙な凹凸も、光の変化によって浮き彫りとなった表現となる。薄暗い民家の天窓から射し込む光は浮遊した塵を巻き込みながら大仕掛けの黒光りした柱、梁を照らし出す。建築は光を取り入れることによって始めて生きた変容体、空間となる。

 「透光不透視」。光は通すが視線は遮られる。紀元の始まりとともにガラスは使われ続けてきた。ガラスの歴史には古いものがある。いかにして出来るだけ薄い大きな無色透明なガラスを作り出せるかが近代技術の果てしない到達点。いきおい無色透明なガラスは近代化の波の中、大きな開口部と一体となり透明な均質な光を建築に大量にもたらすことになる。「量」としてのガラスを通した光は明るさとしてもののかたちを明らかにする。かたや伝統的な日本文化の障子は室内に淡い光と外部の移ろいを影となって写しだす、「透光不透視」の世界。自在なかたちから表現されるガラスブロックの光の世界も「透光不透視」。二枚の型ガラスに発泡スチロールを挟んだガラスで教会全体を包み込み、外界の自然がシルエットとなって語りかけてくる祈りの空間、「バランザーテの教会」(アンジェロマンジェロッテイ設計)。くっきりとした実像以上の静謐な空間を問いかけてくる。

 光は「量」としての明るさを保つ他に光そのものの「質」で空間の表情をつくりだす。障子の向こうの木々の陰の移ろい、影から感じ取る趣は限りなく増幅する。実像としてのくっきりとした明確な自然以上に自然そのものを強く輻輳されたかたちで働きかけてくる。光が入り、内部と外部が大きな開口部で透けて見える建築、それはそれで間違いなく「近代」が標榜してきた透明性の延長としての確かな「現代建築」。間違えてならないのは「量」としての光を取り入れる事に重きが置かれ、光そのものの持つ表情を捨去りつつある事。ガラス技術の進歩、人工照明の進歩、だからと言って「世の中の進歩」だなんて気軽に了解する訳にはいかない、今が良くて過去が悪い、今が明るくて過去が暗いなんてことはない、ただ技術が、世の中が少し「変化」してきただけ。「透光不透視」の世界。「闇があるから光がある、影があるから陽がある、虚像があるから実像がある」。谷崎潤一郎の「陰影礼讃」がふと頭をよぎっていく。

                                                         (青柳 剛)



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