□ 大早館                                                      平成15年7月4日


 人生のスタートラインの強烈な体験と同化するか離反するか距離をはかり続けなければならない。早稲田の早をとって付けた名前には違いない。タイソウカン、一年上の先輩が間借りしていた学生アパートである。当時の早稲田戸塚あたりの典型的な学生相手のアパートだった。男だけの下宿屋とアパートの中間を取った仕組みのアパートだった。大家の口うるさいおばさんは学生の入退室のチェックは厳しかったし、泊まったり少し大きな音楽をかければ直ぐに怒られた。もちろん靴は脱いで上がらなければならない、湿った樹木が植わっている少し広めの中庭に面して廊下が廻っている。幅広い階段を上って中庭を見下ろしながら部屋に入れば六畳一間だけ、トイレは階段を下りて木のサンダルを履いてスノコの上を歩く薄暗い共同トイレ。とても今風のお洒落とは言えないが古めかしいそれなりの雰囲気が漂っていた。電話は玄関に一台、おばさんが呼び出してくれる。戦前の昭和をひきずった「大早館」から私の強烈な建築設計の原点はスタートした。

 夜中の12時過ぎ、「大早館」から出て少し歩くと暗闇の路地からいきなり2人の男が前に立ちはだかった。「両手を出して手を見せろ」と問いかけてくる。素直に何がなんだか分からずに両手を出すと臭いを嗅いでいる。「シンナー臭い、2人ともスプレー使って立て看板を作っていたんじゃないか?それとも火炎瓶か?」学生運動の活動家に間違えられたことに気づいた。暗闇から突然出てきた男2人は公安の刑事、シンナー臭い我々をてっきり活動家と思って職務質問してきたのである。夜中に夜食を食べに建築家の卵気取りの長髪ジーパン姿の男2人がシンナーの臭いをさせて歩いて居るんだから間違えられても仕方がない。建築のデザインのプレゼンテーションには両面張りのペーパーセメントのシンナーは欠かせないし、カラースプレーも必需品。両手の汚れとロットリングのインク汚れを見せて説明してやっと開放され、大隈講堂裏のもつ煮で夜食をとることが出来たのである。

 偶然にスポーツをやっている先輩から面白い設計をする先輩を紹介すると言って紹介されたのが「大早館」の一年上の先輩。なるほど「大早館」まで出かけてみたら面白い。何がすごいと言ったって図面の線が多い。立面図の空はコンマ8mmのロットリングの赤インクで一本一本書き込んである。模型はバルサで事細かに作り上げていくエネルギーには圧倒された。図面の数が多い、何枚も密度を上げて書き込んである。おぼろげに建築の図面は青図、もう少し進んでケント紙に簡単に書き込んであるか、せいぜい透視図ぐらいが着色と思っていた何も知らなかった私にとってほんとに驚きの連続だった。それ以来何とかこんな図面を書きたい一心で殆ど毎日が「大早館」の先輩の6帖間に口うるさいおばさんの目を盗みながら入りびたりの毎日が始まった。

 余分な授業は決して出席しない、そう決めた。構造も設備も材料施工の講義もそっちのほうが得意な同級生から後で聞けば分かるし、試験の前にノートを見せて貰えば単位ぐらいは取れる。何しろ建築の設計の勉強をする事のほうが楽しいしどんどん吸収出来る、それには大学で得る知識には限度がある。先輩から学ぶしかない。先輩の先輩もいることだし、たての関係の輪に入って毎日建築三昧の日々を送ることは今しかない、「大早館」に入り浸りの生活から学ぶものは計り知れなかった。2人で書く図面はデザインの質は稚拙でもエネルギッシュだった、毎回提出する図面が異質、異形だった。「大早館」の雰囲気を聞きつけて建築デザインに興味のある仲間、後輩が出入りするようになって、ますますグループの輪は広がっていった。この前後から建築のデザインは大学からでなく先輩後輩のたての関係から学んでいく風潮が私の大学では一層強くなっていった。

 ストイックに建築だけを考えて図面を書き建築論を毎晩戦わす。1人が眠くなればもう1人が図面を書き続け、交代で眠る。かかっていた音楽はジョンレノンのほんとの初期の曲、エンドレスでいつも聞いていた。「大早館」から建築の歩みを始めた体験は貴重だった。私と先輩の周りにはほんとに建築大好き人間が集まった。みんなまじめに建築情報を持ち寄り建築批評を繰り返すことに熱中した。「建築に何が可能か」真剣に語り合いながら黙々と設計活動に専念する。朝から晩まで建築のデザインを考えているんだから集まった建築家の卵の作品の評価は他の学生と比較していつも抜群だった。「大早館」の建築大好き人間の輪は学内で大きなうねりとなって広がっていった。ストイックな先輩を始めとしてみんなが取り敢えずの目標としたのは大学の卒業設計でなんとしても最優秀賞をとること、実際「大早館」を原点にした殆どの仲間が目標を達成して大学院の建築計画の研究室へと進学して行った。

 地方の学生だから出来た「大早館」の建築設計のスタート。今思い出せばほんとに懐かしい。いろんなことを書いていけばキリがなく書いていくことが出来る。いつもペーパーセメントのシンナーの匂いがしみ込んでいた6帖一間の狭い部屋から建築家の卵の描く人生の夢は本当に膨らんでいた。「大早館」に集まった仲間にとってその後の建築家としての人生を歩んでいくきっかけになったことは確かだ。そんな中でも「大早館」の先輩は建築だけをストイックに追い続け、もちろん最優秀賞をとって大学院にも進学した。追い詰め続けるストイックな姿勢は、おそらく建築の世界とはいつか離反する。先輩は大学院に進学すると大した月日も経たないうちに「建築決別宣言」をして退学、研究室にも顔を見せなくなってしまった。それ以来、先輩との付き合いは縁遠くなりだした。気まぐれに訪れた「大早館」、もう小奇麗なアパートに変わって昔の面影はすっかりない。引きずらなければならない筈の「大早館」、私はどこかでいつも「大早館」の建築に触れ始めたストイックな作法と妥協し続けた人生を送って来たのかもしれない。

                                          (青柳 剛)

ご意見、ご感想は ndk-aoyagi@ndk-g.co.jp まで


「森の声」 CONTENTSに戻る