東京の論理                                            平成16年6月21日


 東京には多いようでも情報がない、だから東京だけの論理はいびつになる。ごった煮になればなるほど特徴はなくなっていくし、妙に透明感のある中性的な空気が蔓延していく。平均値としての空気だからもちろん特徴は無くなってしまう。均質さとともに泥臭さも一緒に消えていく。消えた泥臭さが都会らしさにいつの間にか取って代わる。それが垢抜けた透明感のある都会の雰囲気をつくっている。全国各地から出てきた人と元々東京生まれの人、いろんな人がごった煮になって混ざっているのが都会、特に東京。出てきた地方の人の方言は、瞬く間に全国共通の標準語にとって変わる。背負ってきた地域の雰囲気を消していくのも東京。ここまではどこでも言われている事、もう少し部分的に目を向けてみると面白い。ごった煮の東京の論理を知らず知らずのうちにかたちづくっているのが毎日の情報であること、情報の量は多くても情報の質までごった煮の中で中性化していることである。

 自分の住んでいる地域には、最近人気作家としての地位を確立した「半落ち」、「クライマーズハイ」などの横山秀夫が在籍していた上毛新聞がある。ほんとにローカル紙に徹している。県民の大半が読んでいる。お悔やみ欄から、まず目を通し始める読者が自分の廻りには何人もいる。かなり細かくお悔やみ記事が載っているから朝一番に目を通しておけば地域の人付き合いの義理を欠くことはない。県内各地を細かくエリア別に分けた記事も載っているからこれも身近な出来事をいつも把握していくのにはほんとに好都合だ。1面トップは県内特有の政治経済、大きな事件が載ってくる。もちろん表紙を返した2面、3面は国内外全般のニュースを取り扱っている。それでも基本はローカル、地域情報に徹した記事を毎朝読者は繰り返しながら読んで身近な地域を理解する。地域の掘り下げた情報、東京にはない情報を毎日受け取っているのである。いやがうえにも地方に住んでいる事を毎日実感する。

 枕が替わるから朝早く目が醒める。地方の旅館でもホテルに行っても朝早く目が醒めた時の過ごし方は決まってロビーに行く。ロビーの地方紙を読みに行く。新潟なら新潟日報、仙台なら河北新報、秋田なら秋田魁新報、金沢なら北国新聞などとどこに行っても地方紙を読む。たまに目にする地方紙の情報は面白い。「ふーん、こんなイベントもやっているのかあ、聞いた事もない会社の事も載っているし、地方の議会が変な事で紛糾している・・・・・」、なんか別の世界が、よそ者には受け入れがたい世界がそこにはある。毎日目にしているわけではないから読んでいる自分には蓄積はされないけど、知らない地方にやってきたことをロビーの地方紙から実感する。細かい網の目のようになった情報の中から地方独特のぬくもりまで伝わってくる。限られたエリアの地域情報は、深く掘り下げられた地域情報、ローカル色豊かな地方紙から発見するものは多い。

 東京には多いようでも情報がない、東京にだけは比較する情報がない。もちろん東京だから無理して比較する情報を取ろうとすればとることが出来る。自然に日常に中に入ってくる比較する情報がないのである。毎日全国紙と地方紙を意識もせず交互に比較しながら読んでいる地方の人と東京の人の考え方が変わってくるのはこんなところに原因がある。先日も岐阜で読んでいた岐阜新聞と中日新聞、特に中日新聞なんかは名古屋の全世帯の75パーセントが購読しているという。「きんの〜の、朝刊に出とったろう」と名古屋の人が言えば100パーセント中日新聞の事、地元住民の間でちょっとでも話題になれば、すぐに中日新聞の紙面を賑わす事になる(「名古屋学」岩中祥文著)。そう、東京だけに地方紙がない、東京の全国紙に一面だけ地域版があっても地方新聞の密度とはくらべものにならない。「一極集中」、「都市と地方の格差がどんどん開きつつある」、「地方は切り捨てられる」、「三位一体改革」、こんな議論がこの数年繰り返されてきた。中性化されたごった煮の中で比較される情報を持ち得ない東京の論理だけで日本を考えるからいびつな差異が生まれてくる。

                                          (青柳 剛)


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