「甘い」と「美味い」                                              平成17年2月15日


「甘いものが美味いもの」との感覚は、ずーっと持ち続けてきた。「甘い」と「美味い」は同義語だとずーっと思っていたし、「美味い」が「甘い」だけでないと気づいた年齢になってもこの感覚だけは拭いきれない。要するに砂糖の甘さが好きなのである。砂糖系ならなんでも良い。和菓子は大好き、一番好きなのはアズキでくるまれた「かのこ」、後は羊羹でも大福でも「赤福」でも何でも良い。食事の後の口直しの和菓子の味は又格別、どんな時にも僅かで良いから欠かせない。かといって洋系の甘さももちろん捨てがたい。ショートケーキは、突然、無性に食べたくなるし、コンビニで決まって買うのもアイスクリーム。ホテルに泊まって何が楽しいかって朝食のバイキングのフルーツポンチ、何杯もおかわりしている姿は他人には見せられない。

 甘いものと言えば昨日2月14日はバレンタインデー、バレンタインデー報道で数日前から一色になった。今年のバレンタインデーは、自作のチョコレートを作って渡すのが流行ったらしい。報道が煽るから、甘いチョコレートの事が頭の中を駆け巡る。特別のバレンタインの日でなくても家の中からチョコレートを欠かす事のない生活がこの数年ずーっと続いている。最近気に入っているのが森永のチョコレート「Venezuela Bitter」。これがなかなか美味い。薄くて大きさも1.5センチ角と小さいから糖分を取り過ぎなくて良い。それでもベルギー王室ご用達「GODIVA」のチョコレートを始めて口にしたときのあの感動は忘れられない。こんなに美味いチョコレートがあるなんて驚きだった。今なら「GODIVA」のチョコレートもわざわざ東京で買い求めなくてもどこでも手に入るし、「GODIVA」でも他のフランスのチョコでもベルギーでも、日本のチョコレートの味は負けないぐらい美味しくなってきた。

 思い起こせばチョコレートが好きになったのも、「そんじょそこらで簡単に手に入らない」と言う感覚が染み付いてきたから。ないものが手に入った時の忘れられない感激と貧しかった味覚の裏返しなのかも知れない。砂糖は貴重だった。子供の時はチョコレートを滅多に食べる事が出来なかった。父が東京に出かけた時に買ってくる男の子用は「明治」の茶色と銀紙に包まれた大きな板チョコと女の子用のキューピーの人形をかたどったチョコ、こんな時しかチョコレートは口にすることは出来なかった。最高のお土産だった。姉は人形の手と足から少しずつ食べていたし、男の兄弟は上手に割って貰いながら大きな板チョコを食べていた。いくら子供でも、簡単に一日で食べきってしまうなんて事はしなかった。こんな想い出があるから、好きに食べたい時に食べられる今のチョコレートの味は最高の贅沢感でいっぱいになる。

 「甘い」と「美味い」は同義語でないと気づいてもやはり「甘いものが美味いもの」。ものが不足していた時代、砂糖は貴重品、砂糖系は滅多に口に入らなかった。病気の時しか果物の缶詰は空けてもらえなかった。ホテルの朝食バイキング、フルーツポンチが好きに何杯食べても良いなんてあの頃のことを考えれば夢のよう。砂糖は食べればすぐに反応する。疲れもすぐに取れるし、脳に直接働きかけるのも砂糖、もちろん逆に身体にマイナスに作用するのも分かっている。「甘い」ものばかり食べていれば歯は駄目になるし生活習慣病にもなっていく。夕方、「Venezuela Bitter」の一口をじっくり味わった幸福感、、分かっていても止められない。ないものが手に入った感覚は尾を引く。「甘い」と「美味い」は同義語であると思っている世代、きっと独りではない。

                                          (青柳 剛)

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