綺麗な蕎麦屋                                                平成17年3月10日


 あんな蕎麦屋を設計したらきっと怒られた。設計をしたらその店が繁盛していなければ気持ちが悪い。施主に悪い気になってくる。そう簡単に買い換える訳にもいかないのが建築だから余計に始末が悪い。それでもきちんとデザインされている訳でもないからまだ救われる。地方の都市にあっては別格の蕎麦屋なのである。床はきれいなピカピカのフローリングで仕上がっているし、床暖房もしっかり効いている。大きな開口部のガラスは、曇りひとつない。後は座布団、テーブル、花、置物、メニューとみんな気を使っている。接客態度も地方に似合わず店の雰囲気と同じ、丁寧さそのもの、もちろんそばの味は最高だ。あれはきっとお客の顔を見てからその場で手打ち、湯であげを出してくる。蕎麦がき、そば田楽・・・、メニューも工夫している。それなのにいつ行っても殆どお客がいない綺麗な蕎麦屋がある。

 そもそも蕎麦屋は屋台から出発した。寿司屋も屋台から出発して居店になったと言う。屋台の蕎麦屋で客がみんな丼を抱えてしゃがんで食べている光景は昔の写真にも良く出て来る。蕎麦と寿司はもともと「おやつ」がわり、座敷に上がって身構えて食べる食べ物はてんぷらだった、江戸時代はそうだった。そんな「おやつ」の延長だから蕎麦は基本が昼ごはん、夕飯にはならない。そして蕎麦屋で飲む酒はお調子一本が基本、蕎麦が出来上がるまでの間にお調子を一本飲みながら蕎麦が出てきたら湯であげを一気に食べて終わりにする。一本で終わりにするのが粋、決して二本は飲まない。時代劇に出てくる蕎麦の食べ方は、みんなそうだった。蕎麦屋は屋台が原点。空腹を簡単に癒す「おやつ」がわりだから簡単に早く食べて終わりにする、綺麗な蕎麦屋でなくても味さえ良ければいい。立ち食い蕎麦で良いのかもしれない。

 そうは言っても立ち食い蕎麦屋だけでは味気ない。自然食ブームだから九割、十割蕎麦は、ますます人気がある。そんな蕎麦屋の中でも取り敢えずの間に合わせの食事としての蕎麦屋の対極にある蕎麦屋が、銀座「松玄凛」、赤坂見附のホテルニュージャパン跡地のビル一階の「Soba JIRO」など。店の雰囲気が違う。今までの蕎麦屋の延長線上にはない。流れているBGMはJazz、黒い基調で決めたインテリアは今風のお洒落感覚充分、これが蕎麦屋とはとても思えない。若い清潔そうな女子の店員のサービスも垢抜けている。かたや、「Soba JIRO」のインテリアはコンクリートとメタリック。ともに昼飯でさえ客単価は数千円、もちろん蕎麦の味は美味い。場所が場所だから、客が入らないわけがない。取り敢えずの食事の蕎麦屋を考えているだけでは決して到達しない蕎麦屋と言えない蕎麦屋だ。

 いつ行っても綺麗なあの地方都市の蕎麦屋、店構えから何から何まであんなに努力しているのにお客がいない。蕎麦の味が良くてサービスもきちんと応対するのにお客がいない。それに較べて、前のお客が食べた後のテーブルの後始末さえきちんと出来ていない近くの蕎麦屋は、相変わらず昼飯時の混みようはすごいものがある。いつもがさがさしている雰囲気が昼飯には喜ばれる。蕎麦は「取り敢えずの空腹を癒す昼飯」という感覚から抜けきれないから立ち食い蕎麦の延長の蕎麦屋でいいのも頷ける。靴を履き替え、床暖房の効いたきれいなフローリングに腰を据えながら蕎麦をゆっくり楽しむ気持ちにはなかなかなれない。おそらくいつまで経ってもあの綺麗な蕎麦屋にお客は沸いてこない。銀座、赤坂とまで言わなくても、もう少し都会ならあの綺麗な蕎麦屋もきっと繁盛する。食べ物は雰囲気が第一、考え違いするととんでもない事になる。

                                          (青柳 剛)

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