武士の一分                                                  平成19年2月20日


 少し時期はずれの感じがしないでもないが、「時期はずれに出かけたほうが座席が空いていて良い」、「廻りを気にせずのんびりじっくり見ることが出来る」、そんなことを考えて映画「武士の一分」を見てきた。映画館に着くとチケット売り場が長蛇の列になっている。慌てて並ぼうと思った行列の先は、「愛の流刑地」だった。「武士の一分」はやはり予想通り空いている。「愛ルケ、そんなに人気があるんかあ」と思いながら通り過ぎるが、渡辺淳一の文章はどうも好きになれない、それでも、もう題名も忘れたが渡辺淳一原作の映画も見たことがある。すぐ後ろの席の数人の観客が下卑た笑いで騒ぎながら見ている品の悪さにすぐに映画館から出てきてしまったことを思い出した。あの頃も、18歳未満お断りの他の映画ではそんなことはなかった。このあたりの感覚があるから、「愛ルケ」はいくら豊川悦司と寺島しのぶが良いという評判でも見る気が起きない。今日の話は少し時期はずれ、「武士の一分」、藤沢周平原作の話である。

 「譲れない心・譲れない愛、命をかけて守りたい愛がある」、ストーリー自体は階級社会の武士の世界ではよくある話、分かりやすい。「武士の一分」、筋を通す、恨みを晴らす、果し合いの話である。ところが、鑑賞した人の話を聞くとあまり評判は良くない。例えば、木村拓哉扮する下級武士・三村真之丞のお毒見役が貝の刺身を食べてその猛毒で眼が見えなくなるまでの展開が長すぎ、その割にはその後の展開があっけなさ過ぎるとか、仇討ちの場面が短すぎとかいろんな感想はあるようだ。ストーリーもありふれた話だし、特別な予想外のどんでん返しもなく事件が起きながら展開する。そして、悲惨な悲劇にならずに終わるからほっとする。愛する男のために身を挺した女の「一分」、そして武士としての「一分」を全うした男、最後はつましく懸命に身の丈に合った日々を送る下級武士の生活が戻ってくる。

 日本アカデミー賞最優秀賞受賞の発表が2月16日(金)にあった。木村拓哉が主演男優賞のノミネートを辞退したといっても、最優秀作品賞にも最優秀主演男優賞にも「武士の一分」は選ばれなかった。どちらも予想通りの結果だった。「武士の一分」で選ばれたのは最優秀助演男優賞の笹野高史、最優秀撮影賞の長沼六男、最優秀照明賞の中須岳士だった。この選考結果から読み取るものは多い。「武士の一分」は一言で言えば描写がいいのである。背景描写が細かい。脇役の親の代から使われている中間・徳平役・笹野高史はそれぞれの場面になくてはならない存在だった。下級武士の住まいのセットもよく出来ていた。例えば食事ひとつをとっても食器そのものは勿論、使われ方まで細かく吟味され描写されている。かごの中のツガイの文鳥は、下級武士夫婦の生活の変化をそれとなく暗示する。こういった描写の細かさが藤沢周平原作から引き出されてくるそのものだ。こういった見方で「武士の一分」の情景描写をなぞってみると面白い。

 最近は邦画の人気が洋画を上回りだしたとテレビの報道でも言っていた。去年の夏に見た剣の腕がからきし駄目な侍の仇討ちの話が「仇討ちしない人生もある」と終わってしまう、ほのぼのとした長屋の人間模様を描いた「花よりもなほ」も面白かった。同世代の我々にはストーリーの中身がきつくてなかなか見る勇気が出ないが、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を取った「明日の記憶」もきっと良い映画、涙ながらに授賞式で喜びを語っていた渡辺謙も良かった。「武士の一分」、藤沢周平の作品は山形の庄内藩というか設定上架空の海坂藩を舞台に物語りは展開する。綿密な描写と北日本・山形鶴岡の美しい自然を背景にした抒情性こそ藤沢文学の真髄、藤沢周平が歩んできた人生の起伏がそうさせる。映画化された作品は「たそがれ清兵衛」、「隠し剣 鬼の爪」、「蝉しぐれ」、テレビドラマ化された作品には味わえないものがある。そういえば、小説「蝉しぐれ」、蝉のことを事細かく書いていたあの文章、もう一度読み直して見ようかって気にもなってくる。藤沢文学の面白さはきっとこのあたりにある。

                                          (青柳 剛)

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