□ エッセイは事実です                                              平成19年8月27日


 自分の身のまわりのことはあまり書かない、もちろん家族のことは書かない、そう決めている。家の中のことをあまり書かないから読んでいる人にとってどんな生活をしているのかよく分からないことになる。先日も「結婚しているんですか?」とまで言われた。そのうえ、年齢もよく分からないという。「文章を読んでいるともっと若い人かと思いましたよ!」と直接会った人に何度も驚きの顔で言われたことがある。きっとその逆に思った人も数多い。文章の中で自分の生活をさらけ出す気はもともとないし、このあたりはウヤムヤのほうがいいと思って文章を書いている。そうなるとここで文章にして書いてあることは事実かそうでないかということにもなるが、フィクションとしての小説を書いているわけではないから事実を書いている。エッセイは事実を書いていくことが基本だと思っている。

 このあたりをきちんと区分けして書いているのが吉村昭、「エッセイは事実です」(「本」、2001年1月)というタイトルのエッセイまで書いている。「私は小説を書くかたわら随筆を書く。(中略)随筆は、眼で見、耳で聞いたことを事実そのままに書く。それによって私の素顔が読者に伝えられると思っている。つまり私は随筆で実際に見聞したことを書き、フィクションを書くような操作はして決してしていない。もしも読者に興味をいだかせるような作為をほどこしたら、それは読者をあざむくことになると思っている。そのような気持ちで随筆を書いてきたが、稀には随筆に書いたことを事実かどうか疑われることがある」(「オレンジ色のマフラー」文芸春秋2002年5月)と吉村昭が東京空襲で飛来した米軍機に乗っていた首にオレンジ色のマフラーを巻いた2人の飛行士の顔まで直接間近に見た話、ハシカに大人になっても罹っていなかった話、子供が生まれたときに奥さんと間違えて他の女の人の手を握ったという話・・・、「本当に見た?」、「本当にあった?」と疑われたが「本当のことです。私は事実しか書きません」と事実関係をもっと具体的に説明までしている。

 ところが事実を書いていく第14回小学館ノンフィクション大賞の審査評(「週刊ポスト」8.31号)で作家桐野夏生は、もう少し踏み込んだ別の見方を書いている。「ややこしいのだが、いったん言葉にしたものは、フィクション、ノンフィクションを問わず、すべて虚構(フィクション)になる。「事実」という材料を使って「真実」を考える仕事だとしても、虚構であることは間違いがない。だからこそ、大胆な想像力も必要なのである。言葉を変えれば作家性である。作品に表れる「真実」とは、作家が導き出したものに他ならないからだ。という訳で、ノンフィクション作家の想像力ということを考えながら候補作を読んでみた・・・・」、言葉に、文章に、置き換える行為はそれだけで一人歩きしていくことを言っている。改めて、書き手、読み手の関係性を鋭く指摘した見方といえる。

 毎週この欄で1200字から1300字ぐらいのエッセイを書いている。身の回りで起きたこと、人と話をしながら考えたこと、本を読みながら考えたこと、新聞・テレビ・週刊誌を見ながら考えたこと、音楽を聴きながら考えたこと、歩きながら考えたこと・・・、それらをまとめて短い文章にしてきた。何年も書いていると読み手のいろいろな感想が入ってくる。書き手に対する読み手の思いは増幅する。「エッセイは事実です」の吉村昭の書き方も正しいし、桐野夏生の文章化された表現すべて広義の意味でのフィクションとの指摘も正しい。意識下にあるかどうか、その差は意識して脚色するかしないかの差だと思っている。事実を組み立てながら考えることは楽しい、そのうちしっかり意識しながらフィクションを書いてみればもっと別の世界がひらけるような気がする。「表現する」ために人は生きている。


                                          (青柳 剛)

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