□ 寂しい正月                                                                    平成19年12月24日


 もうすぐ正月がやってくる。去年の大晦日は、家にいなかった。父が入院して看病しているときも家にいなかったが、そのとき以来、二度目である。あの時は無我夢中で東京のホテルに泊まっていたが、去年は金沢のホテルの角部屋ですることもなく、ただ窓下をぞろぞろ歩く人をぼんやりと眺めていた。雪舞う金沢を期待して出かけたがあてが外れた。それでも香林坊の109の交差点から尾山神社までの間の並木道の白いイルミネーションは素晴らしかった。重く垂れ込め、冷え切った夜空と白にライトアップされた並木、雪が降る以上の幻想的な空間を醸し出していた。その下を尾山神社に向かって初詣の人が引きもきらずに歩いているのである。行き交う黒い影を見下ろしながら、することもなく1年を振り返り正月を迎えた。

 昔は正月が来れば皆同じように歳の数が重ねられた。数え年で年齢を勘定したから正月と共に歳をとったのである。誕生日に誕生会なんてことはなかった。また正月が来て、ひとつ大きく成長したという感覚もあったのだが、正月はなんとなく楽しくうきうきした気分になった。大晦日にゆず湯に入って、母が襖を開けて柳行利から出してくれる下着は、シャツ・パンツ・モモヒキたまには寝巻きまで、すべて真新しかった。寝て起きれば、身も心もさっぱりした正月になっていた。お年玉と雑煮の餅を今年はいくつ食べることが出来るかと思いながら楽しい正月がやってきた。「もういくつ寝るとお正月〜♪、お正月には凧揚げて、・・・、」、歌のように正月がやってくるのが待ち遠しかった、そして、やってきた正月は待つ甲斐があったことを裏切ることなく本当に楽しかった。それがいつの頃からだったろうか、正月が寂しいと感じ出したのは・・・、大人になってからは正月を、「寂しい正月」と感じるようになったのである。

 「寂しい正月」といえば極め付きの「寂しい正月」と暮れがあった。町中浮かれ気分で沸くクリスマスの後に暮れ、正月と続くから寂しさは募る。耐え難いような寂しさが襲ってくる。あれは20歳代の半ばだった。暮れの29日、後輩の男友達と女友達と3人で真夜中まで建築の図面を描いていた。電気を煌々と点けて練馬の自宅で描いていた。遅い夕飯を3人で食べに出かけて二時間も経っていただろうか、真夜中なのにいきなり玄関のブザーが鳴らされた。その頃は、インターホンではなくて押し釦のブザーが多かった。3人で思わず顔を見合わせ、出ようかどうしようか迷った末に玄関扉を開けると、腕に腕章を巻いた男が数人立っていた。警察の聞き込みである。先頭の刑事がいきなり胸のポケットから出したのはポラロイド写真だった。「この人見ませんでしたか?」と聞いてきた。写っていたのは若い女の人、しかも眼を瞑って鼻から血まで出ている。顔は綺麗ではっきり分かる。すぐ裏の13階のマンションの屋上から飛び降りたのだという。そういえば、夕飯を食べに行くときに小雨が降るのに傘もささないですれ違った黒いコートを着た若い女の人がいた。さっきすれ違ったばかりのその女の人が飛び降り自殺をしていたのである。「さぁ、・・・?」といい続けて、警察は引き上げていったが、その後の3人の沈んだ雰囲気は重かった。お互いたいした言葉も交わさずに夜が明けていったのである。都会の浮かれきったクリスマスの後の暮れの喧騒の中、傘もささずに歩いて飛び降り自殺、眼の前で見た写真から伝わってきた衝撃、逃げ出したいような寂しさを掻きたてたのである。

 「寂しい正月」、同じような話は、高倉健主演の「駅−STATION」の一場面にもあった。その舞台は日本海に面した地吹雪荒れ狂う北海道の増毛町だった。高倉健演じる警察官、三上英次は徹頭徹尾孤独な男を演じていた。凶悪犯を追い続ける狙撃手という非情な役目である。増毛町の鉄道はこれより先はない、行き止まりである。一日に数本の列車しか行き来しない。徹底した行き止まり感が漂っている。その増毛駅に降り立った三上英次が船でその先帰ろうとするが、12月31日の大晦日の晩、悪天候で足止めになる。足止めになった三上英次が立ち寄った居酒屋での出会いが倍賞千恵子扮する桐子である。桐子の好きな八代亜紀の「舟歌」を聞きながら、カウンターで英次と肩を寄せ合いながら紅白歌合戦を見る場面の語りがいい。「去年のお正月、私の友達、札幌のアパートでガス自殺してね。ススキノのバーに勤めていた人なの。どんな遊び人も、どんなに心を許した男性も、この時期は故郷や家庭に帰ってしまう」、「つらいのよ。そんなとき」と桐子が、ため息混じりに語る場面、「お酒はぬるめの燗でいい〜、・・・」の歌声と共に、どうしようもない取り残された行き止まりの寂寥感が漂いだすのである。

 今年も残すところ後数日になった。数日後にはまた正月がやってくる。暮れまでのせわしさと慌ただしさが消えた数日間がやってくる。若い女の人が飛び降りたその翌朝から友達の家を泊まり歩いて、しばらく寄り付かなかった。何があったか知る由もなかったが、取り残された寂しさのまま華やかそうな正月を迎えることが出来なくなって、あの女の人は飛び降りた。増毛町の桐子が話す札幌の女の人は、賑やかそうにしているススキノの世界が仮の姿、「うたかたの世界」と気づいたその時の寂しさに耐えられなかった。正月こそは日常の脆さをまざまざと感じさせる。そして、子供の頃の正月、普段はあまり家にいなかった父親を始め、家族全員が朝から家にいるから楽しかった。そこには取り残され感はなかった。今年の正月も暮れの帰省客に混じって北陸、今年こそはしんしんと雪の降る町を歩けそうな気がする。華やかさの陰に隠れた「寂しい正月」、身の引き締まる思いを強くするときである。(参考朝日新聞2006年12月23日be on Saturday
                                          (青柳 剛)

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