□ 建築家シリーズ(白井晟一)                                                          平成19年12月27日


 白井晟一(1905−1983)の旧松井田町役場・現松井田町文化財資料室 、玄関ホールに入るといきなり白井晟一の肖像写真が飾られているのが眼に入ってくる。有名なモノクロの肖像写真だが、改めて眼にするといい写真だ。2階に上る階段沿いには同時期に建てられた白井晟一の建築作品の写真パネルが所狭しと飾られている。秋の宮村役場、雄勝町役場、湯沢の酒造会館、横手興生病院をはじめとした一連の秋田の建築作品である。2階のホールには施工時の建築図面と建築現場を訪れた時の白井晟一の貴重なセピア色の写真が展示されている。こういった資料は建築雑誌では見ることが出来ない、白井晟一ファンには、きっとたまらない。設計した建築家をこうして称える姿勢に感動しながら旧松井田町役場を見てきた。

 旧松井田町役場は、昭和31年に竣工、平成4年まで庁舎として使われた。群馬では少し前、昭和29年に白井の設計による前橋・喚乎堂が完成している。喚乎堂は、店の中央の円形吹き抜けの真ん中に御影石を張った独立柱が記憶に残る懐かしい建築だった。旧中仙道を見下ろす高台に建った役場は当時「畑の中のパルテノン」・「ギリシャ式列柱の役場」と語られていた。傷みはあちこちに見られるが、手を広げるようなバルコニーとウイングシステムによる妻入り、T字型平面型は当時のままだ。5本の列柱で支えられた翼のような大屋根に向かって開口部は軒裏いっぱいまでにあけられている。採光を最大限にまで取り込む手法は、雪深い秋田の一連の役場建築で取った考え方をそのまま表現している。町民に慕われる開放的な役場、白井の意図が強く感じられる。

 白井晟一ファンは多い。建築を学び始めると必ず白井の魅力に惹きつけられる。きっと異端の建築家としての存在がそうさせる。戦後モダニズム建築の潮流と距離を置いたことも、建築家としての出発点も異端だ。京都高等工芸学校図案科を卒業後、ベルリン大学で哲学を学んでいる。建築設計を始めたきっかけは親戚の住宅設計の相談にのったことから始まっている。私が建築を意識しだして最初に見た白井の建築は、取り壊されてしまったが親和銀行東京支店だった、独特の形態による強烈な存在感がもたらす圧倒感は今でも思い出すことが出来る。その後、佐世保の親和銀行本店、東京飯倉の交差点に建つノアビル、親和銀行懐雲館、松涛美術館と発表される作品はどれも独特の感性に裏打ちされた作品ばかりだった。

 旧松井田町役場完成間近に語った白井の思いは重い。「風土に定着した建築で農民を文化的に解放しようという試みで、農村の建築文化の基準を素朴さ、土くささに置いてきた従来の考え方は間違いじゃないだろうかと思う。私は役場を行政の中心とみ、妙義山を含んだ観光地の一施設として町民の殿堂にしたいと考えた」(朝日新聞 昭和30年11月14日)。雪深い秋田の一連の建築から始まって群馬、地方に建築文化のありようを正面から真摯に取り組んだ建築家であることを忘れてはならない。
                                          (青柳 剛)

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