□ 函館物語                                                                         平成21年7月13日


 五稜郭の外れ、誰もいない小さな鮨屋でカウンター越しに主人が「函館から青森に出かけてみると、湿気が多くてたまらない!」と言っていた。北海道の人は、青森にでさえ、湿気の多さを感じるという。去年も今頃、青森と弘前、「空気が乾燥している!」と駅に降り立ったときから乾いた空気に感動していたことを思い出す。「Change Of Air」とはよく言ったもので、気分転換には吸う空気を変えるに限る。同じような空気を吸っているとなかなか気持ちも変わらない。函館は青森よりも緯度がかなり高く、気温も低いが、乾燥している空気を吸っているだけで去年以上の爽やかな気持ちを味わえる、そう思って函館に出かけてきた。新幹線と在来線を乗り継ぎ、7時間以上かけた函館行きである。後は、吸う空気に加えて、自分の足でほとんど歩き回ることが出来る都市のスケールが函館を選んだ条件だった。

 自分の足で廻る目的は、知らない街に隠れている生活を発見すること、どこにでもあるような切り取られた観光スポットに行ってもどうしようもない。徹底的に歩き疲れるまで歩けば、その都市の雰囲気と生活を体感することが出来る。そうは言っても簡単なガイドブックがあれば助かる。手にした本は芥川賞作家・辻仁成の「函館物語」(集英社文庫)、中学・高校と多感な時期の4年間を函館で過ごした作家の函館1週間の滞在記だからかなり参考になる。本の冒頭にある黄色く塗られた鋳鉄製のレトロな消火栓、この雰囲気を味わいたいと思いながら、電車の中で読みきってから函館駅に降り立った。辻仁成は函館ロイヤルホテルの851号室に決めているというが、前にも泊まったことのある駅そばのホテルにチェックインした。このホテルは、内海に面して、もう無くなってしまった青函連絡船の乗降口が真下に見える雰囲気がいい、以前は船の出入りを眺めながら、暮れていく海を眺めていた。

 函館は、都市の構造にあわせて、背骨状に路面電車が走っているから動きやすい。小骨状の道を歩き疲れたら路面電車に戻れば、どこにでも又横移動が出来る。路面電車沿いに歩きながら、最初に立ち寄ったのが地元の駅前の百貨店、見知らぬ地での面白い買い物が出来ると思っていつも百貨店に寄る。夏用のジャケットを買おうと思ったが、あいにく気に入ったものがない、店を出てから電車通りを離れて住宅地を歩き出した。独特の屋根の形をした蔵の形も面白いし、お目当ての黄色い消火栓もあちこちにある、何の染物屋かと思って覗いたら漁船の旗の準備を奥でしていた。乾いた風が気持ち良い、2時間も歩き廻るとさすがに疲れ、日は暮れだしていた。路面電車に乗り、五稜郭に向かった。今では函館の中心街は五稜郭だという。夕飯を食べに入ったのが、誰もいない小さな鮨屋だったのである。冷たく冷やした日本酒「黒帯」を飲みながら食べる、あめ色のやりイカ、ホッキ貝、螺貝は美味い、さすがに旬な北の味だった。

 2日目は、路面電車の終着駅「谷地頭」から片道1.2qを歩いて立待岬まで出かけた。坂道を登りだすと墓地、海に向かう墓地のロケーションは素晴らしい、墓参りの度に背景としての海が語りかけてくるものはきっと大きい。函館に数ヶ月間しか滞在しなかった石川啄木の墓が坂道を登りきったところにある。ついこの間読んでいた嵐山光三郎の「文人悪食」(新潮文庫)、啄木が言い出したら聞かない、母をも手こずらせるほどの我が儘な食欲があったことを思い出す。立待岬からの帰りは、外海の海岸沿いを歩き出した。函館の地図そのまんまを確認できる海岸線だ。昆布を干していたり、洗ったりしている姿を見ながら路面電車に乗って「十字街」の交差点に戻り、昼飯は元町の創業130年の「五島軒」の洋食ランチ、歴史があるだけに味はいい。函館の絵に画いたような坂「八幡坂」を下って今度は路面電車のもうひとつの終着駅「函館ドック」まで、昼下がりののんびりした入舟町の漁港を歩く、人の声も聞こえてこない静寂がたまらない。

 ひたすら歩き回りながら2泊3日の函館の旅が終わった。それでも朝早く観光スポットのベイエリアにも出かけたし、味は良いが値段はそれほど安くない朝市にも出かけて、アワビを厚切りにして飲む日本酒は格別だった。洋館めぐりもサラッと済ませた。結局、欲しかった綿と麻のジャケットも別の百貨店でズボンと一緒に買ったし、ホテルのロビーでは格安のブランド物のネクタイまで買うことが出来た。旅先でこういった日常の買い物をすると旅の思い出は増幅する。心残りといえば、ジム服を持っていったのにジムに行く時間がなかったということ、それだけ歩き回ったということだ。最後に辻仁成の函館ロイヤルホテルに出かけて、ホテルのすぐ裏の外海の海岸から立待岬までを眺め、その足で函館駅から八戸で最終の新幹線に乗り継げる電車で帰途に着いた。暮れだした海を見ながら考えることといえば、今年の春先から殆んど休みらしい休みがなかったこと、考える時間もなかったこと、毎日が追われ続けていること・・・、いろいろ頭の中を駆け巡っていくが、吸う空気を変えようと思った函館行き、夏に向かって気持ちを切り替えるきっかけになったことは確かだった。車窓から見える津軽海峡は、風もなく凪いでいる。(青柳 剛)

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