□ 甘い味覚                                                       平成21年12月30日


 「甘い」味覚だけが消えていかない。94歳の半ばを過ぎた母は元気だが、もう何を食べても分からないし、味覚はどれも同じように感じるらしい。何を出しても同じということは、張り合いが悪いこともあるが、逆に考えると都合のいい事もある。毎朝同じ食事を出しても不平を言われることがない。似たような食事でいいわけだから、食事を作る手間も省けるのである。カロリーとバランスの良いメニューを考えるだけで事が足りる。「美味い 不味い」は決して言うことがない。肝心なのは食事中に気を逸らせないこと、頭の中を食べる行為に向かわせ続ければ、きれいさっぱり完食となる。そんな中でも数年前に気づいたことなのだが、唯一残っている味覚といえば「甘い」感覚だけである。「甘い」ものを出せば素直に喜んでくれる。「甘い」と素直に言う。機嫌が悪いときには「アップルジュース」、気が逸れて食事に眼が向かなくなったときには「イチゴ牛乳」、そしてヨーグルトにも蜂蜜を少し混ぜてやれば本当に喜んだ笑顔になるのである。

 「甘い」味覚は忘れられない。「美味いことは甘いこと」とずーっと思い続けてきたから、「甘い」ものが大好きである。羊羹からどら焼き、和菓子の「かのこ」、シュークリーム、ショートケーキ、ロールケーキ、クリームパン、何でも「甘い」ものには目がない。最近は「マカロン」を気に入って食べていた。口の中でとろけるような食感とお洒落な甘さがたまらない。食パンにはマーマレードを塗りたくるようにたっぷりつけて、毎朝食べていた。気にすることもなく、「甘い」ものが好きだと思って食べ続けていたら、流石に調子が悪い。糖分の散りすぎだと自覚しだした。太りだしたわけでもないが、身体全体が調子悪い。脹脛がつるようになってきた。そう思い出してからここ数ヶ月間、一切の「甘い」食べ物を摂ることを止めてきた。ちょっとした飴ももちろん、目に見える砂糖系の食べ物を口にすることがなくなったのである。

 「甘い」味覚は増幅する。大井町のアトレの中を歩いていたら、通りすがりにゴディバの店が目に入った。目に入った途端、急にゴディバのチョコレートを買いたくてしょうがない気持ちが沸いてきた。何ヶ月も甘いものを食べていないから、買おうかどうか迷ったが、結局もう一度店に戻ってチョコレートのセットを買うことにした。ゴディバのチョコレートを初めて口にしたときの感激が忘れられない。それでも最近は、ゴディバの味はもう当たり前、もっと美味いチョコレートが沢山出てきた。思いつく美味そうなチョコレートを挙げてみれば、新宿伊勢丹のジャンポール・エヴァン、銀座のカカオにこだわったピエール・マルコリーニ、日本橋高島屋のトイスチャーなど究極のチョコレート味である。店の雰囲気はもちろん、「甘い」チョコレートの味は、洗練されながら進化し続けているのである。

 結局大井町のゴディバのチョコレートは、買うには買ったが、同僚にそっくりやってしまった。数ヶ月間続いた「甘い」ものを口にしない禁欲生活は相変わらず続いている。それでも「甘い」味覚が忘れられないから衝動買いに手が伸びる。いつまで経っても忘れられないどころか「甘い」味覚は際限なく拡がっていく。子供の頃に口にした銀紙に包まれた明治のチョコレートの感激、そして贅沢にさえ思えたゴディバ、今ではゴディバの味もあたりまえの感覚になろうとしている。「甘い」ものを我慢し続けながらいよいよ年も変わる、そのうち年が明けたら、トイスチャーのシャンパントリュフを少しだけ食べてみようかと思っている。すべて消えていったとしても最後に残る味覚は「甘い」味覚、スプーンの上に少しだけ蜂蜜を載せて食べさせたときの母の笑顔が忘れられない、介護に向かう意欲も「甘い」味覚から培われる。(青柳 剛)

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