□ 1坪の空間                                                       平成22年4月12日


 たまにはそれをオーバーすることもあるが、1000字から1500字くらいまで、週に1本か2本の原稿を書いている。最近は文章を書くことが出来る人だと思って、原稿を依頼してくるわけだが、文章を書くということはそんなに容易なことではない。次から次へと書きたいことが泡のように浮かんでくる時は、何とも思わないが、考えている時間が少なくなればなるほど書くことが出来なくなってくる。考える時間をつくりながら、四苦八苦しながら書いていると思ってそんなに外れてはいない。それでも、もともと文章を書くことが好きだったということもあるが、10年近くに亘っていろいろなことを書いてきた。文章を書くことに向かわせる力は、言いたいメッセージを読み手に伝える力であり、そのうえ、読み終わった後に何人かのしっかりとした感想でも返ってくれば次の文章へと向かう意欲も沸いてくるのである。

 仕事の合間を縫っての物書きだから、文章を書き上げるのは概ね土曜か日曜日、その日に予定が入っているとかなり辛くなってくる。週末のために残りの週5日は、気づいたこと、書きたいことを小さなメモにしておく、これがないと文章を書くことがスタートしない。そしてもうひとつ、平日の夜に書けばいいと思うかもしれないが、夜には決して書かないようにしている、夜に書く文章は勢いが出ることもあるが、感情がこもりすぎ、簡単に言えば酒を飲んで夜に話をしたことも翌朝になれば急速に萎んでしまうあの感覚があるから、夜文章を書くわけにはいかないのである。日曜の夕方あたりはもう文章は概ね出来上がっている。このあたりが、週のうちで一番気持ちがすっきりとする時だが、残された夜には出来上がった文章の推敲と読み上げ、句読点から始まって文章の言い回し、同じ言葉が繰り返されていないかどうか、そして全体の抑揚を考えながら最後の文章が出来上がってくるのである。

 文章を考え、書く時間をつくりだすことも大事だが、書くためのスペースにこだわらなければ文章は書けない。文章を書き始めてから、12畳ぐらいのスペースのありきたりの部屋で原稿を書いている。新幹線の中だったり、待ち合わせのレストランとかで一日のうちに何度も文章を書いている人もいるが、あれはブログ、ツイッターの領域を超えることが出来ないのである。所詮閉じれば消えていってしまうパソコン世界の感覚、メッセージ性を持った文章になるには程遠い。電子化された世の中であっても、紙として残された文章でなければ書き手のメッセージは伝わらない。別にいかにも書斎然としたスペースで書くこともないが、書くための記憶がちりばめられた部屋で書くのがいい。過去に考えられた履歴が部屋のあちこちに残されているのである。そして、手書きの小さなメモが置かれていたり、最近読んだ本が並べられていれば、あれこれ書くための思いは広がっていくのである。

 12畳のスペースに加えて、もっと大事なのが3bほど離れた2畳、つまり1坪のスペースである。最近は、このスペースがないと文章が書けないという気持ちにもなってきた。机に座って書いていても、必ずといって良いほど行き詰る。そんなときには、すぐそばのこの小さなスペースに移動しながら考え直し、次のフレーズを探し出す。見つかった言い回しを部屋に戻って、また書き出す。このふたつのスペースを行ったり来たりしながら、ようやく最後の締めくくりの文章が決まって完成することになる。狭い「1坪の空間」、気持ちの切り替えとじっくりと新しい言葉を発見するためにはなくてはならないスペースである。相変わらず毎週、週末には出来るだけ文章を書く時間に当てている。このふたつの部屋を出たり入ったりする時間が多くなればなるほど、四苦八苦しているわけだが、仕上がった文章を何度も読み上げているときの達成感が次の表現する意欲を掻き立てる。扉を閉じれば密閉された、ものすごく狭い「1坪の空間」だが、表現するためには思いのこもる広大な空間に見えてくる。(青柳 剛)

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