□ 「意味づけられた空間」と都市                                             平成22年8月11日


 昨年の春竣工した大手町の新「経団連会館」での会議に出席する機会が多い。東京駅から地下鉄の大手町に乗り換えてもそれほど電車に乗り継いだ効果はない、かといって、タクシーに乗っていくのにもワンメーターの中途半端な距離である。地下街を歩けば東京駅からそのままのような気分になるが、地下街をひたすら歩くのはなんか味気ない。そんなことを考えながら、いつも東京駅から丸の内の超高層ビル群の間を15分ぐらいかけて歩いている。暑い日も、雨の日も、木枯らしが吹く寒い日も、ビルの谷間を歩いている。歩きながら考えることといえば、東京駅の周辺、特に丸の内界隈が急速に変わったということである。前川国男が設計した茶色の旧東京海上ビル(1974年竣工)が「皇居を見下ろすことになる」と言って景観というか美観論争が起きたのは一昔前の話、今ではもう考えられないぐらいに丸の内界隈の風景は大きく変わってしまった。

 東京駅の北口に出て、「オアゾ」の前を通り抜け、「新丸の内ビル」を左手に見ながら永代通りに向かって右折し、「大手町ファーストスクエアビル」の吹き抜けロビーを斜めに突っ切って本郷通りへ、そのまま「経団連」に向かうこのコースが決まりきった道順になっているが、途中の「みずほコーポレイト銀行本店」(1974年竣工)を眺めながら歩くのが楽しみの一つだから敢えてこのコースを辿っている。時代の流れと共に看板が変わってしまったが、建築当時は「旧日本興業銀行本店」(旧興銀)だった。設計は日本の建築界を牽引してきた村野藤吾、当時の話題作として「新建築」誌の表紙を飾った建築である。竣工時には何度か見学に出かけたが、繰り返される赤御影石本磨きの壁柱が天空へと向かう迫力は素晴らしいものがあり、北側の永代通りに面した2枚の湾曲した窓のない壁面の大きさに圧倒され、その下に作られたオープンスペースは村野らしさを残したやさしい「都市の広場」だった。

 ところで最近何度かこの道筋を歩くうちに気づきだしたことだが、築後40年近くが経ったこの建築が周辺のビル群に対して違和感を醸し出していることである。丸の内界隈にあって、この差異は何だろうかと考えてみるとそれはただ月日が経ったと言うことでもなく、建築家村野藤吾の「思い」と言うか「手の痕跡」、もう少しいえば、「旧興銀」だけがいつの間にか周辺から浮き上がった「意味づけられた空間」になっていることへの感覚から生まれてくるものだと思うようになってきた。あちこちに村野らしさがちりばめられている。地面と建築との取り合いは特有の丁寧な納まり、そして繰り返される壁柱は平面的に「く」の字になって通りに向かって膨らみを持たせ、コーナーは村野らしい面取りが複雑に施されている。柱と柱の凹んだ部分には緑の植え込み、この延長が北側の「都市の広場」へとつながり、訪れる人にとって視覚的にやさしい拡がりをもたらしているのである。

 この何年かで東京駅周辺、特に丸の内界隈は大きく変わったが、その中でも「旧興銀」への違和感と言うか、周辺の高層ビル群からの取り残され感は否めない。北側の「都市の広場」の表現が変わってしまったことにもよるが、建築家によって「意味づけられた空間」が拡がることもなく、急速に周辺の都市空間がかたちづくられてきたということであろう。白くて皮膜としてのガラスに象徴される「中性化された都市空間」へと向かう動きに、都市全体が飲み込まれだしたのである。丸の内界隈では、「帝国ホテル」に向かって小さなお洒落なガラス窓をしつらえた「日生劇場」も旧「そごう会館」も村野藤吾の設計だが、どちらも村野らしさが滲み出ている。これから先、都市の風景はこれらの建築と離反した「中性化された都市空間」へと向かっていき、建築家の「手の痕跡」は、ますますかき消されそうな勢いで進んでいきそうだが、「旧興銀」の湾曲した壁を見上げる度に伝わってくる建築家村野藤吾の強靭なる思いも日本の都市空間の中では拡がりを見せないで終わってしまう、そして、重たい漂うような都市の雰囲気は日本ではもう醸成されないんだろうかとも考えながら「経団連」への会議と急いでいる。(文中敬称略)(建設通信新聞8月10日)(青柳 剛)

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